徳島剣山世界農業遺産支援協議会通信-No.17

≪祖父江顧問の剣山系の伝統農業に関わる特別寄稿≫ [平成27年 2月 3日(火)]

・本支援協議会の顧問であり、元徳島農業大学校の校長であった祖父江義彦さんから、剣山系の伝統農業に関わる特別寄稿をいただきましたので通信に掲載します。


特別寄稿『急傾斜地農業の背景にある照葉樹林文化』


元徳島農業大学校 校長

徳島剣山世界農業遺産支援協議会 顧問

祖父江 義彦


・日本文化の基層にある照葉樹林文化の提唱者である中尾佐助元大阪府立大学教授と佐々木高明元国立民族学博物館館長は、シンポジウムの中で次のように語っている。

[中尾]

「僕が面白いと思うのは、あそこ(四国山地)は部落(集落)が山の中腹に出てくるんだ。あんなところ、日本ではあそこが一番著しいと思う。日本では山の部落(集落)は、みんな谷底にある。ところが、山の中、斜面の中腹に部落(集落)が出てくるんです。それは景色としては、まるでネパールみたいだ。そしてもう一つ。あそこには、野生みたいな山茶なんかがある。」

[独特の生活文化を育んだ東アジアの照葉樹林帯]

特別寄稿『急傾斜地農業の背景にある照葉樹林文化』1
※阿波と似た山上集落の風景が広がるハニ族村(西双版納猛海県)

・東アはヒマラヤの中腹ネパール、ブータンから東へ、アッサム、ミャンマー、中国南部(長江以南)を通り、台湾、沖縄を経て西日本に至る、東西5,000㎞に亘って、カシ、シイ、クスなど冬でも落葉しない常緑広葉樹で構成される照葉樹林帯が広がっている。これらの地域は温帯に属し、照葉樹林は森林の生態推移の極相にあって、山野は自然のまま推移する照葉樹林となる。森林の生態推移とは、焼けたり崩れたりして裸地になると、まず一年生の雑草が、続いてカヤなどの多年生の草が生え草原となる。次にマツ、クヌギ、コナラといった雑木林、いわゆる陽樹林に変わり、最終的に照葉樹が優勢となる陰樹林となる。この間、約150年を要する。この典型的な姿を奈良の春日山に見ることが出来る。毎年、山焼きが行われる若草山は見事な草地であるのに対し、隣接する春日神社の社叢林は、1,000年以上伐採が禁止されているため、原生林に近い照葉樹林となっている。かつては、日本列島の南西部を覆っていた照葉樹林も、長い歴史の間に開拓しつくされ、照葉樹林を町おこしにしている宮崎県綾町の「綾の森」、沖縄本島北部の「ヤンバルの森」のほか、各地の鎮守の森にその姿を留めているが、近年、雑木林などの里山が放置され、照葉樹林に還りつつあるところも見受けられる。照葉樹林の下生えであるツバキの仲間は、ツバキ油(食用、整髪用ほか)、茶(飲用)、杖、櫛(縄文遺跡出土)など、サカキ、シキミ、ワカバ、ヒイラギなどは神事、宗教行事に使われ、古くから人間生活に深く結び付いている。因みに、徳島県の木のヤマモモ、徳島市の木のホルトノキも照葉樹林を構成しており、スダチをはじめ柑橘類も重要な照葉樹である。


[照葉樹林文化とは何か]

・照葉樹林文化とは、東アジアに拡がる照葉樹林帯において、6~4千年前の縄文時代から、少数民族の間で受け継がれてきた共通する生活文化のことである。中尾佐助教授が世界各地の植物や農耕について現地の学術探検調査を行い、1966年に提唱された仮説で、その後、佐々木高明館長を中心に、文化人類学、民俗学、考古学などを総合してまとめられた概念で、次のような文化的特色がある。
①焼畑農耕(アワなど雑穀、陸稲、サトイモ等を栽培)、②もち性を好む民族性(もち種作物を創り出し、ハレの日の食物に重用)、③澱粉をとるための水さらし技術(野生のイモ類、クズ、ドングリなどの活用)、④発酵菌を活用した納豆、麹菌などの製造、⑤茶を飲む習慣、⑥漆と竹細工の文化、⑦吊り壁と高床の家屋、⑧歌垣の習慣や山の神信仰、⑨羽衣伝説や神話の類似、⑩藍染、椿油、絹、和紙、鵜飼などが挙げられる。
これらは、照葉樹林帯の温暖多湿の気候、植生にうまく適応し、利用する生活の知恵であり、各要素がセットで存在し伝播して、多くの少数民族(倭人、倭族も一少数民族)に共通して見られる。


[焼畑農耕は照葉樹林文化の特徴]

特別寄稿『急傾斜地農業の背景にある照葉樹林文化』2
※焼畑農業地と棚田の共存風景(雲南省西双版納猛海県)

・照葉樹林文化の象徴的な姿は、山地の焼畑農耕にある。森を焼いて畑にして作物を栽培する焼畑農耕は、農耕が始まったとされる縄文時代から続いてきた。現在でも焼畑は、ミャンマー、中国南西部などの少数民族の間で広く行われている。日本でも高度経済成長が始まる1960年頃までは、四国山地や九州山地で行われていて、焼畑についての様々な調査記録が残されている。法務省の地籍公図にも「焼畑」という地自表示が多く残っている。焼畑の一般的な形態は、1年目の8~11月に森を切り倒し乾燥させ、2年目の8月に火を入れ(春焼きもある)、生育期間の短いソバを播き、3年目からアワ、ヒエ、キビ、陸稲を作付け、肥料分が減る4年目、5年目にはダイズ、アズキなどの豆類やサトイモなどを作る。6年目からは休閑地として約20年間放置し、森林の再生を待つ。一度に焼く面積はせいぜい50a(100m×50m)以下である。肥料分は森林を焼いた灰のみ、成分は窒素、カリ、ミネラルが主で、焼却熱で溶け易くなり、雑草の種や害虫も焼かれて少ない。収量は天候に左右されるが、意外と多く10a当たり200㎏相当が穫れ、救荒作物としても備蓄された。照葉樹林帯における各国の焼畑で栽培されている作物の頻度調査によれば、アワが第1位で豆類、陸稲、キビ、サトイモの順となっている。勿論、焼畑は自給自足時代の農法であって、経済や流通の発達した現代では顧みられない。農機具のない時代でも比較的広い農地を開墾できたが、必要以上に山を焼かず、環境への影響が少なくて自然と共生できる循環型で、かつ自然の生態系を巧みに利用した合理的な農法といえよう。
・縄文期の農耕の流れを想像してみると、農耕が始まる以前の狩猟採収時代から、野生植物を保護管理する半栽培を経て、山焼き、焼畑に移行し、輪作による作物栽培が始まる。そして、条件の良い所を石積み等で常畑化して集約的な栽培を行う。つまり、[狩猟採取]⇒[半栽培]⇒[焼畑]⇒[常畑](急傾斜畑)の流れが考えられる。


[なぜ、山の中腹に集落が生まれたか]

特別寄稿『急傾斜地農業の背景にある照葉樹林文化』3
※東みよし町の大規模な加茂山集落

・照葉樹林文化は極めて山岳的な性格をもち、本来の形態は山棲みの生活にある。平野部に比べ山の中腹の方が、良質な水が確保でき、伝染病など衛生面で優れ、洪水などの災害も少なく、多様な植物資源に恵まれ、日当たりが良く、見晴らしなど快適性を考えると、居住空間として優れていたと思われる。日本列島を縦断する中央構造線の南に沿って、いわゆる青石を母岩とする結晶片岩帯が東西に走り、その中心部が美馬・三好地域である。急峻な四国山地にあって地すべり地帯といわれているが、地すべり後の安定した山の中腹(100~700m)に、集落を囲うように天然林を残し崩壊を予防し、急傾斜地集落が発達したのである。結晶片岩は、保水性、排水性に優れ、農耕に適している。下流の吉野川の沖積平野が全国屈指の肥沃な農業地帯で、かつての藍作、今の野菜園芸、鳴門金時の砂地園芸は、この結晶片岩の土壌で支えられていることからも証明される。加えて結晶片岩は石垣などにも利用し易く、傾斜畑の造成を容易にしている。さらに、山の中腹は朝方に冷気が谷に降り、暖気が上昇する気温の逆転現象によって無霜地帯になるなど、夏涼しく冬暖かい有利な条件もある。
・近頃テレビのCMに、中央構造線の東端にある長野県の遠山郷が、急傾斜地集落の風景として登場し有名になっているが、その規模や集落数において四国山地が圧倒している。阿波(粟)の国の名は、アワの栽培が飛び抜けていたことに由来し、その原風景は山地の急傾斜畑に展開する集落にあるといえよう。


[存亡の危機にある急傾斜地集落]

特別寄稿『急傾斜地農業の背景にある照葉樹林文化』4
※三好市井川町の大規模な吹集落

・急傾斜地集落の形成過程は、誰も見たことはないが、消滅過程は今まさに目のあたりにしている。1960年代後半我が国は高度経済成長期に入り、車社会となり、公共事業の拡大に伴って、山間部でも各集落に道路が通ずるようになった。その結果、畑や屋敷に杉を植え集落をあとにし、平地へ移転する挙家離村が始まり、みるみるうちに急傾斜畑は、減少していった。次の危機は、現在進行中であり、後継者はすでに山を降り、残っていた高齢者は寿命を迎えつつある。いずれにしても、そこに住む人々の生活が成り立たなければ、集落の存続はありえない。最近になって、限界集落対策とか地方創生とか叫ばれているが、遅きに失したきらいはある。しかし、まだ希望は残されている。山頂平坦部に農地を造成し、夏秋イチゴの産地化に成功している東みよし町大藤、奥村集落、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受け景観を保有し、観光地として注目を集めつつある三好市落合集落のような例もあり、その外にも高冷地野菜、茶、ゼンマイなどの特産物を作って、頑張っている集落もある。世界農業遺産に選定されれば、人類の宝としての評価を受けることに住民税の優遇措置、スイスの山岳酪農保護のためにとられている直接所得補償などが考えられる。さらに、子供の教育問題が大きなカギとなるので、特に義務教育期間における充分な対策が必要に思える。最近、つるぎ町に若い夫婦が都会から移住し、焼畑農業に挑戦しているという報道を目にした。経済至上志主義になじめない人達が、夫々の人生観、価値観を実現するため、急傾斜地農業に飛び込んでくることも期待できる。平家の落人ではなく、“現代社会のフロンティアよ、天空の郷へ来たれ”である。


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