阿波世界農業遺産

棚田編-写真展1

日本の棚田のルーツ「佐那河内」

日本の棚田のルーツ「佐那河内」 ・『佐那河内村誌』によると、佐那河内村は往古[佐那県]と呼ばれた。その「佐那」は、「日本最古の棚田」を示す地名であった。『日本書紀』神代紀によると、「天照大神が、粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稲を以ては水田種子とす。」と書かれている。この[水田種子](たなつもの)こそが[棚田]で、日本最古の水田とは、【棚田】であった。また、『日本書紀』神代紀に、高天原で天照大神が御田としたのが[天狭田][長田]とある。よって【佐那】とは、[天狭田]の略称で【棚田】の意味であった。佐那河内村の原点は「棚田」にあり、日本最古の棚田を示す地名であった。この地名と棚田の里が一致するのは、日本で佐那河内村のみとなる。写真は、8月における東府能の棚田風景。標高約100m付近の傾斜地に棚田が営まれ、まるで、階段状に緑のじゅうたんが敷き詰められているように見え、日本の「棚田百選」の中に加える価値がある。

棚田のルーツ「佐那河内」(遠野)

棚田のルーツ「佐那河内」(遠野) ・『佐那河内村誌』によると、佐那河内村は往古[佐那県]と呼ばれた棚田米を献上する天皇直轄領であった。その美味な米は、江戸期に蜂須賀侯が御膳米としたほど。この写真は、8月における遠野の棚田風景。標高約240m付近の高地傾斜地に棚田が営まれている。階段状に緑のじゅうたんが敷き詰められているように見える。日本の棚田百選の中に加えるだけの価値が高いものである。昔は、水田に水が張る季節の夜、水面に浮かぶ月を見る優雅な月見が行われていたそうである。日本の季節情緒を元にした行事を復活したいものである。なお、阿波の棚田は、山上部より低地へと拓かれてきたものである。

佐那河内米が美味しい理由

佐那河内米が美味しい理由 ・古来より佐那河内米が美味な理由は、園瀬川南岸部が日本有数の地すべり地帯となる御荷鉾帯のため容易に棚田が造営できた。破砕帯のため、山上部付近からでも多量の湧水が確保できた。御荷鉾帯の土壌は、玄武岩由来の結晶片岩の風化土壌である粘土質の赤土層で、鉄分を多量に含んでいた。加えて、村東部の嵯峨より蛇紋岩の分布が始まり、奥野々・牛木屋・府能、神山町鬼籠野まで点々と続き、最大の露頭が蝮塚峠となるのだが、その蛇紋岩は鉄分とマグネシウムを多量に含んでいた。この二つの土壌が稲作に適したミネラルを含む土壌を形成することになった。
・また、標高差による寒暖差、傾斜面の上昇気流や霧が、糖度の高い美味な米を生み出す好条件となった。さらには、肥草の投入量に困らないほど草木を生い茂らせる2000㎜を超える降水量や日照量も稲作に最適な条件を提供した。
・写真は、西府能のハザカケ。

佐那河内の開拓神を祀る「御間都比古神社」

佐那河内の開拓神を祀る「御間都比古神社」 ・佐那河内村の中峯に祀られた「御間都比古神社」は、佐那河内の開拓神(長国の祖神)・御間都比古色止命を祀る平安時代の『延喜式』神名帳にも見える式内社であった。例祭は春のみの4月3日。天皇名で祀られた式内社は当社以外にはない。『佐那河内村誌』によると、「長国の祖神である観松彦色止命が、初めて佐那県に居住し、山野を墾き巧みに谿水を井堰に利用して水田の基を起こし、また海浜の地に漁業を教えて産業を開発せられた。」とある。拠って佐那河内村は、ミマツヒコが最初に居住して山野を開き、渓谷を巧みに井堰に利用して[棚田]を造営した地域であった。天皇ゆかりの地であるが故に、大正9年12月に宮内省諸陵寮考証官の実地調査があった。

井川町の下影の棚田

井川町の下影の棚田 ・三好市井川町の井内谷川の西岸にあたる下影地区には、谷合に湧き出る水を利用した石積の棚田が作られ、伝統的な農村景観を構築している。これは、日本棚田百選にも選ばれ、地域の人々の活動により保存されている。驚くべきは、この棚田のさらに山上に大集落があることで、その野住地区は、下影よりさらに上の「ソラの世界」の高地性傾斜地集落で、高度な石垣文化、カヤ利用農法、神社、巨樹信仰等が見られるのである。


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